齋藤陽道さんについて知ったのは雑誌の連載だった。
写真家であること、ご自身と奥様はろう者で、二人のお子さんは聴者であることなどが書かれていた。東日本大震災で被災したろう者にふれて、救援の手から孤立してしまった人がたくさんいたことが綴られていた。水や物資の支給場所などが書かれた紙を配布され、その案内を読んでも意味の理解につながらない場合があり、孤立してしまうことがあった、という内容だったように思う。
今、私の手元にその誌面がないので正確に書くことができず、これらのことが大きく間違っていないことを願うばかりなのだが、このときはじめて手話と書きことば(書記日本語)は別のことばなのだと認識したように思う。おそらく心のどこかで、紙とペンがあれば筆談で会話することができると思っていたのだ。
考えてみれば、自分にも思い当たることがある。外国に行きその国ことばの案内を見てなんとなく単語を拾い読みできても、文書全体の意味はわからない、というような感覚。中国語の文書を見て日本語と同じ漢字を見つければ、その漢字だけは日本語で読むことができるのだが、センテンスとしてはどういう意味なのかはわからない、というような…。異なることばには壁のようなものがあって、手話を第一言語としている人のなかには、手話通訳を必要とする人がたくさんいることを知ったのだ。
映画は、「うたってなんだと思いますか?」という監督からの質問にはじまり、齋藤さんの口話を交えた筆談で、考えながらペンで紙に書き、訂正し、書く…そんなシーンが流れてゆく。
16歳でろう学校の手話に出会うまで、通常学級で音声日本語による教育を受けてきたこと、子どもの頃にはじめて聴こえた「ことば」はゴーっと鳴る爆音の中に散乱する音のパーツのようだったこと。音はただの振動に過ぎず、音楽の授業は次第に苦痛になり、ただ、ぼーっと座っているばかりだったことなど、ことばや音に対する絶望に近かった思いが紙の上に綴られてゆく。
映画のタイトルは「うたのはじまり」なのだが、フィルムの中では「うた」「音」「ことば」「音楽」などが「うた」に統一されることなくテーマとして繰り返される。
自分にとってうたとはなにか、を模索するべく「うた」や「音楽」「リズム」を探し、ときには「音が見える」場面にも出会う。
お子さんが生まれたことにより、避けてきた「うた」や「音楽」に対する気持ちに変化が現れる。ろうのご両親から生まれた聴者のことをCODA(コーダ)と呼ぶそうだが、齋藤さんたちのもとにやってきた息子さんもCODAである。これからご両親と手話で、聴こえるほかの人たちとは音声日本語でコミュニケーションをとって成長していくことが想像される。そんな未来を予想するように、その置かれた複雑な状況を飛び越え、ことばを発するより先に指文字で意思表示をする場面に胸が熱くなった。
まだ赤ちゃんの息子さんは、眠くなればだだをこねるのは当然で、齋藤さんは自ずと息子さんのために、ことばを紡ぎ、旋律とリズムにのせてうたいはじめるのだ。必然的に我が子のためにうたう子守唄がうまれ、聞こえない音の世界に向かって心の旅がはじまる。そして映画の終盤ではひとつの思いにたどり着く——-。
冒頭でお子さんが生まれる場面をカメラは追いかけている。
陣痛がはじまり、お産の場面が流れてゆく。
生まれてきた赤ちゃんは、聴こえないご両親を気遣うようになかなか泣かない。
臍の緒を切る頃、やっと盛大に産声を上げる。
齋藤さんが赤ちゃんに話しかける。
「どんな こえで ないているの?」
「どんな ふうに ないているの?」
奥様が陣痛で発した声はとても印象深い。
おそらくうめき声なのだろうと思うが、声、音、ことば、旋律…どれもあてはまるような、うたっているような声なのだ。
うたとはなにか。
ここにもひとつの「うた」があったように思う。
「うたのはじまり」【バリアフリー字幕版】 【監督】河合宏樹 【キャスト】齋藤陽道,盛山麻奈美,盛山樹,七尾旅人 2020年/日本/86分/SPACE SHOWER FILMS/DCP 公式ホームページ https://utanohajimari.com 公式ホームページ内の〝仮設の映画館〟https://utanohajimari.com/kasetsu/
「うたのはじまり」 【バリアフリー字幕版】 【監督】河合宏樹 【キャスト】齋藤陽道,盛山麻奈美 盛山樹,七尾旅人 2020年/日本/86分/ SPACE SHOWER FILMS/DCP 公式ホームページ https://utanohajimari.com 公式ホームページ内の 〝仮設の映画館〟 https://utanohajimari.com/kasetsu/